3月21日、大リーグ・マリナーズのイチロー選手が現役を引退しました。天才打者として活躍してきた28年間の選手生活に幕を下ろしたことになります。そんなアスリートの引退後の心理について考えてみました。
- すべてを野球に捧げた生活
- 破産者も多い米国のトッププロ選手
- アイデンティティを再構築する必要性
- 危険はアスリートだけではない
すべてを野球に捧げた生活
21日の試合後に行われた記者会見でイチロー選手は、「現役生活に終止符を打つことを決めたタイミングと理由は?」との質問に、
「キャンプ終盤ですね。もともと日本でプレーするところまでが契約上の予定だったんですけど、終盤で結果を出せず、それを覆すことができなかったということですね」
と答えています。
また野球を楽しいと感じられた時期についても、
「1994年、仰木監督と出会ってレギュラーとして使ってもらえた。この年までですね、楽しかったのは」と返答し、「力以上の評価をされるのはとても苦しいです」
とも話しています。(『朝日新聞』2019年3月22日)
4367本の安打を積み重ねてきた“天才打者”ですら、トップアスリートとして走り続ける辛さを告白しています。そのプレッシャーは想像以上のものでしょう。
またイチロー選手といえば、野球のためにあらゆるルーティンを決めていたことがよく知られています。翌日のゲームに合わせて、寝る時間や食事を決め、朝昼兼用のブランチの内容も決めていました。まさに野球のために生活のすべてを捧げていたといえるのではないでしょうか。
破産者も多い米国のトッププロ選手
世界トップクラスのアスリートの多くは、その競技で世界を制するために尋常ではない努力をしています。青年期のみならず、幼少期からスポーツ漬けの生活も、当たり前という状況です。
そしてプロとして成功したとしても、引退後、必ずしも幸福な未来が待っているというわけではありません。2009年、『スポーツ・イラストレイテッド』誌によれば、NFL選手(米国最高のアメリカン・フットボールリーグ)の78%が引退後2年以内に破産し、NBA(米国最高のバスケットボールリーグ)プレイヤーの60%が5年以内に破産するというのです。
もちろん、どちらのリーグの選手も引退までに大金を手にできるリーグです。
こうしたアスリートの引退にともなう危機について、元オーストラリア代表選手を対象としたアスリートとしてのアイデンティティとセカンドキャリアについて、アスリートしてのアイデンティティが強いほど、新しい人生を始めることに難しさを感じると、研究者のグローブは論文に書いています。
考えてみれば、生活のほとんどを費やしてきたものがなくなるという喪失感が、人生に衝撃を与えるのは当たり前かもしれません。トップアスリートまではいかなくても、“仕事人間”だった人が定年退職後に無気力になるという話は珍しくありません。
アイデンティティを再構築する必要性
1997年に心理学者でもあり神経科学者でもあるアンガーリーダーによって書かれた論文には、「アスリートとしてのアイデンティティを維持するために,職業に関する知識や広範囲に及ぶライフスキル,家族や仲間のサポートを無視していた.そのために,彼らは,競技生活に際して,もはやアスリートでなくなってしまうことを認めるのが困難であり,また,引退後の生活に対して,情緒的にも知的にも,身体的にも準備できていなかった」(「スポーツ選手の競技引退に関する心理社会学的研究」中込四郎)とアスリートの心理を説明しているようです。
つまりアスリートは、競技引退後にアイデンティティを再構築する必要に迫られるというのです。また中込四郎筑波大教授の研究によれば、アスリートから職業人にうまく移行できた場合でも、そのときに「主体的に意思決定できた」かどうかが重要で、主体的な意思決定でないと中高年以降に訪れるサードキャリアへの移行でつまずく可能性があると指摘しています。
望まれるのは、ずっと競技ができるわけではないことをあらかじめ気付き、将来の自分の生き方を主体的に決めることだそうです。
危険はアスリートだけではない
イチロー選手については、監督になることはインタビューで否定し、今後の野球との付き合い方について質問され、「いまは分からない。でも、明日もトレーニングをしていると思います」と答え、将来を明確にしているわけではありません。
とはいえ『FLASH』(2016年8月30日)が伝えているように、弓子夫人は資産運用にも成功しており、大リーグ時代の報酬の一部も引退後に受け取る契約をしているなど資産管理は万全です。じっくりと将来を考える時間も、それを後押ししたい人脈もあるでしょうから、イチロー選手の未来に不安はないでしょう。野球を通じて世界を魅了してきたイチロー選手らしい生き様が、どのような形で別の花を咲かせるのを楽しみに待つこともできそうです。
むしろアスリートのキャリアの問題は、仕事だけに情熱を傾けている人たちにこそ知っておくべき話かもしれません。「アスリートとしてのアイデンティティを維持するために,職業に関する知識や広範囲に及ぶライフスキル,家族や仲間のサポートを無視していた」という文章の「家族や仲間のサポートを無視していた」というフレーズに、耳が痛いと感じる人もいるのではないでしょうか。
この問題は一つのことに熱中し、成功した人ほど危険性が高いことが特徴です。家族・友人など仕事を離れた仲間との絆を、イチロー選手引退ともに確認してみることもいいかもしれません。
平均寿命を考えれば、一つのキャリアで人生をまっとうすることが難しくなっています。だからこそ次のキャリアに引き継げる何かを大事にすべきなのかもしれません。