大相撲の中川親方が3人の弟子に暴力をふるったとして、中川部屋が閉鎖されました。相撲界で繰り返される暴力を伴う不祥事はどうして起きるのでしょうか?その原因を心理学的に解説します。
- 暴力沙汰が問題になり続ける相撲界
- 暴力指導の奥にある2つの思想
- 暴力的な指導は次世代に受け継がれる
- スポーツ界の暴力根絶の方法とは?
暴力沙汰が問題になり続ける相撲界
中川親方の暴力は弟子である力士の告発で明らかになりました。日本相撲協会は、外部有識者を交えたコンプライアンス委員会が調査し、中川親方の暴力を認定したと発表しています。その内容も、蹴ったり、拳で殴ったりしながら「殺すぞ」といった暴言を吐くなど、指導者として決して許されるものではないでしょう。
それにしても相撲界の暴力沙汰は、どうして続くのでしょうか?
2007年6月には時津川部屋の力士が暴行されて死亡し、厳しい稽古で鍛えることを意味する「かわいがり」をした親方には実刑判決がくだっています。日本相撲協会は2018年10月に「暴力決別宣言」を出していますが、その後もたびたび暴力沙汰が報道されています。
じつは日本のスポーツ界で続く体罰や暴力については、心理学の研究テーマとして多くの論文が発表されています。そして暴力が根絶できない理由も考察されているのです。そのいくつかを紹介していきましょう。
暴力指導の奥にある2つの思想
暴力的な指導の根底のある思想として、複数の論文で取り上げられていたのが、以下の2つです。
①「からだで覚える」という思想
②身体より精神を鍛えるという思想
①については、上達に必要な基本動作を覚えるために反復練習が必要なのは確かでしょう。しかし理屈抜きに身体で覚えるという思想は、ミスなどに対しても身体にわからせるという発想を生みやすくしてしまうようです。
オリンピックで銅メダルを獲得した為末大氏も、理屈が通じないスポーツ界の現状について、次のように書いています。
何かに対し、議論をしたり、データを元に語ることをよしとしない文化はまだスポーツ界に根強い。そしてこういった文化ほど体罰が肯定されやすい。例えば、敗因分析を行う時に、全部ひっくるめて気持ちが足りませんでしたとしてしまうのもそうだろう。(「スポーツにおける体罰の背景――根絶に向けて取り組めること」)
いまだに根性論で敗因が語られることが少ないということでしょう。
さらにやっかいなのが②の精神を鍛えるという思想です。
東京学芸大学の鈴木明哲教授は、次のように分析しています。
苦痛感を活用して精神を鍛え上げるには「殴ってわからせる」というプラクティス(練習)が不可欠となってくる(「日本スポーツ界における暴力指導への『自己反省』―体育・スポーツ史研究と教員養成の観点から―」)
確かにスポーツに必要な筋肉を鍛えるなら合理的な訓練方法が採用されますが、根性を鍛えるのであれば、より精神的にも肉体的もつらい状況が必要になるでしょうし、そこでの暴力も肯定されるでしょう。
スポーツと暴力の研究者である松田太希氏も
スポーツが(学校)体育の中で発展してきたこと、その体育では「修養」「徳」などの精神的な面が強調されてきた(「スポーツ集団における選手間関係の暴力性」)
と書いています。
高校野球で真夏の最も暑い時期に、丸坊主の球児たちによってなぜ大会が開催されるのかといった理由にも、この「修養」の思想があるとよく指摘されています。身体を通して精神修行するなら、より厳しい環境の方が適しているからです。先述の鈴木氏は、こうした精神修養は仏教における苦行・荒行に近いのではないかと指摘しています。
暴力自体が修行の一環となっているなら、指導者が暴力を振るい続けることに疑問を抱かないでしょう。
暴力的な指導は次世代に受け継がれる
こうした2つの思想で行われた暴力は、じつは次世代に受け継がれるという恐ろしさがあります。というのも指導者から暴力を受けることで、人は暴力的な指導に肯定的になっていくからです。
体罰を受けたことがない人には理解しにくい理屈かもしれませんが、こうした心理を証明しているアンケート調査もあります。2008年の調査でも、2014年の調査でも、体罰を受けた経験のある人は体罰を正当化する傾向にあることがわかっているのです。
高橋豪仁氏と久米田恵氏の調査では、クラブ活動の体罰について「愛のある体罰なら、受けた側もいやな気持になるとは限らない」といった回答があったそうです。
また為末氏も次のように書いています。
実際に、体罰を肯定する選手は、自分だけでは頑張れなかった、愛があるから頑張れたとしばしば言う。つまり、体罰があることによって自分を奮い立たせてトレーニングするということができたというわけだ。最初のうちは反発している選手も次第にこの空気に馴染んでくると、身体的な辛さなどはあるが、実は思想が楽になる。誰にも強制されない中で自らを律し自らを奮い立たせるのは、精神的負担が大きい。
さらに暴力を受けた人の集団は、こうした体験がない人々を排除すると鈴木氏は指摘しています。大相撲が過去、外部理事に抵抗感を示した心理の奥には、「厳しい稽古をくぐり抜けてきてはいない」といった想いがあったそうです。
これでは暴力を根絶するのが難しくなるのも当然でしょう。
体罰を肯定する指導者が、体罰によって体罰肯定予備軍を作り出し、そうした人たちだけの集団をつくって、理屈抜きでしごくことになってしまうわけですから。
スポーツ界の暴力根絶の方法とは?
為末氏は、体罰の根絶のための方法をいくつか書いています。そこから2つ紹介しましょう。
①成功体験の書き換え
相撲で言えば、親方の「かわいがり」と称する暴力伴う稽古で強くなれたという思いを、指導者自らが打ち消すことでしょう。当たり前ですが、暴力を振るうことなくスポーツの頂点に立った人は山ほどいます。暴力と競技での勝利は、本来であれば結びつける必要がないものです。
②データ重視と言語重視
親方やコーチによる理屈抜きの指導ではなく、データと言語を重視した指導は暴力をなくすためにも重要でしょう。海外のサッカー指導者については、選手とコーチ・監督の特性を分けて考えています。名選手だからと、そのままコーチや指導者になれるわけではありません。
相撲をはじめとする日本のスポーツ界でも体罰に耐えて強くなった人ではなく、勝因・敗因をしっかり分析して説明できる指導者こそが必要なのではないでしょうか。
2019年付け人への暴行などで引退を促された十両・貴ノ富士は、記者会見で次のように話しています。
言葉で何回言っても伝わらない場合、手を出さない代わりにどう指導したらいいのか、教えてもらっていない。(『毎日新聞』2020年7月14日)
暴力以外の指導の方法を知らないまま指導者になっていく怖さが、ここにあります。こうした問題は相撲界だけにとどまらないのかもしれません。しっかりコミュニケーションを取れる人が指導的な立場に立つことの重要性を、こうした問題は示しているのかもしれません。
コミュニケーションについて、興味のある方はこちらもご覧ください。
参考:「日本スポーツ界における暴力指導への『自己反省』―体育・スポーツ史研究と教員養成の観点から―」(鈴木明哲)/「スポーツ集団における選手間関係の暴力性―根絶に向けて取り組めること」(為末大)/「スポーツ集団における選手間関係の暴力性―ルネ・ジラールの暴力論を手がかりに―」(松田太希)/「スポーツ集団における体罰温存のメカニズム―S.フロイトの集団心理学への着目から―」(松田太希)/「体罰・暴力における体育専攻学生の意識と実態」(藤田主一 ほか)/『体罰はなぜなくならないのか』(藤井誠二/幻冬舎)/「角界 根深い暴力」(『毎日新聞』2020年7月14日)